2013.2.15

石巻訪問(2日目)

被災地訪問の3回目は2日目の工程です。この日は石巻にしては珍しく雪が積もる日になりましたが、予定通り牡鹿半島の一番先まで行ってきました。

女川市内

中学生のころ東北一周電車旅行をした最後の駅が女川でした。昨年11月にも女川に一人で来ましたが、代替バスの駅が高台にあって、昔の電車駅は跡形もなく、唯一タイルのみが残っていたのは衝撃的でした。街を見下ろすと以前はもっと広かったイメージなのに、家がなく基礎だけが残された町は本当に小さく感じました。駅を降りて3時間一人でぶらぶらして町の人に状況を聞きながら歩いたのが思い出されます。

町にある女川病院は16メートルの小高い丘の上に立ちますが、その病院の1階天井から50センチ下まで水がきたそうです。高台にあってとてもこんなところまで波が来るとは想像できません。津波を避けるために高台に病院を作ったはずなのに、そこまで津波がやってくるとは本当に今回の津波は大きかったのだと思います。町の中心部は壊滅的で、この土地に愛着がないと女川に戻って生活するのは難しだろうなと感じました。

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かき小屋

2日目のおやつはかき小屋さんで牡蠣とホタテをたくさんいただきました。まだ、牡蠣の殻むきのための施設や浄化施設の復旧は進んでいないため、殻がついたままの牡蠣に火を通して食べるというスタイルでした。とてもおいしかったし、びっくりしたのが東京で食べるのと比べて格段に安かったということです。物流や卸などの過程でコストが上乗せされているということです。こういった牡蠣も6次産業化を進めることでさらに現地にお金が落ちる構造になるはずです。

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鮎川浜のおしかのれん街

本州で震源に一番近いところにある鮎川浜に行ってきました。商店や家などほとんど流れてしまった浜です。一昨年の11月に生活インフラが復活して、ボランティアやNPO等もはいって仮設商店街である「おしかのれん街」を作ったそうです。生鮮食料品から飲食店、土産品店等の16店舗が入居しています。その中で黄金寿司さんや旬魚旬味いしもりさんマル二鮮魚店さんなどのお話をお伺いしました。

鮎川浜も他の浜と同様、外部への人口流出が多く、ボランティアの人が来て何かしら買ってくれるので経営が成り立っているという感じだそうです。従来からの地元の顧客からの売上は人口減で厳しい状況にあるそうです。ただ、地域のサービス業(床屋・娯楽・医療など)が無いと、住んでも不便ということになってしまうので、おしかのれん街があるということは他の浜に比べるとよいのかもしれません。

サービス業ということに視点を当てると、1次産業に対しては手厚い保護がなされているが、その他の産業に対してはなかなか保護が行き届いていない現状があるようです。永田町にいると牡鹿は漁業と観光の街というように見えてしまいがちですが、暮らしている人がいる以上、暮らしている人たち向けのサービス業があるのは当たり前なので、そういったところも考慮しなければいけないと感じています。

また多くの方から聞かれた意見として、被災地に対する支援金がいくつもあり、しかもばらばらで制度として分かりづらい、書類を作るのが大変という声です。また、補助金を受け取ろうにも区画が決まっていないから申請すらできないという、現場の実態を踏まえていないものもあったそうです。当時の状況を考えれば、何もしないよりもばらばらであったとしても制度を作っていったことは理解できます。ただ復興も第二フェーズに入ったので一度このタイミングでまとめることを考えてもいいかもしれません。

鮎川浜では震災前も年に2回程度避難訓練をしていたそうです。いつも避難訓練に参加していた人は近所の方との連携もあり障がい者や老人の方でも助かったそうです。避難訓練というとあまり意味がないと思いがちですが、実際には効果があった実例です。

“お手伝い”で鮎川浜に来られている遠藤さん

ボランティアで牡鹿に来られて、今は住みながら鮎川浜の”お手伝い”をされている遠藤太一さんにもお話を聞けました。震災直後あかりも電気もないころに牡鹿半島に来られ、自費でボランティアスタッフのための施設の建設を計画するなど精力的に活動されています。

漁業については、漁具については農林水産省の補助で買うことはできるが、加工施設については補助を受けづらいとの話がありました。加工できないために採りっぱなしで売る必要があり、付加価値をつけて売れないというつらい立場にあるそうです。震災後、2度目の牡蠣シーズンにもかかわらずまだ納屋さえできていないのが現状だそうです。農林水産省と中小企業庁とのはざまのところになるので、事務所としても調べてみたいと思います。

教育の問題についても、人口減で学校が減るなどがあり、中学生の段階で下宿することが当たり前のようになっているそうです。サテライト等で地元で教育を受けられる環境を作らなければならないとおっしゃられていました。若いうちに便利な都会を知ってしまうとなかなか戻ってきづらいとこともあるようです。

また、ボランティアを受け入れるボランティア団体の切実な問題として、ボランティアの受け入れ準備をしている団体にお金が落ちてこないという話もありました。ボランティアに来るほうはスポットで活動をして写真を撮って活動報告を作って申請できますが、受け入れ側はなかなかその書類を作る時間もなく補助を受けられていないそうです。受け入れ側も組織化していかないといけないのでしょうが、そうすることで実質の支援をする工数が減ってしまうのでなかなか難しい問題です。

初日の若者たちとの集いに出てきた話とも関連するのですが、住民とボランティアの関係が「ボランティアしてなんだから何でもしてくれて当然」「被災してかわいそうだから何でもボランティアしてあげてる」という関係になってしまいがちとおっしゃっていました。あくまでも”お手伝い”なので、できることはできるし、できないことはできないしというスタンスで、ボランティアもいつかはいなくなってしまうので、いなくなった後のことも考えて活動しているという言葉は印象的でした。

今回の石巻・女川訪問のまとめ

石巻・女川は暫定的な暮らしから恒久的な暮らしに移行する震災の第二フェーズに入ってきていることを実感しました。町やコミュニティが壊れてしまったのを元通りに復旧するのではなくて、発展的に町とコミュニティを再作成していくことが重要だと感じています。そうすることで、ボランティアや行政の支援がなくなったとしても、自立した町やコミュニティができるのだと思います。

永田町にいてはわからなかったのが、地盤が1~1.5m下がったというのは本当に致命的だということ。少し海が荒れるだけで道路に水しぶきが飛んできたり、内陸まで海水が入り込んでくる、川があふれだすということが普通にありました。昔、海水浴場だった十八成浜(くぐなりはま)は沈んでなくなってしまったし、今まで建物があったところに建物を建てようとしても、カサ上げしないと建てられないという単純な事実の重さを実感しました。

事務所としても2つのことに取り組んでいきたいと考えています。一つは過疎(これは被災地だけでなく、他の地方、最近は東京までもが同じ現象)の問題、人口減のなかで地域の活性化をどう図っていくのかということ。もう一つが、震災の第二フェーズに入ってその設計をしなければいけないということ。復興のフェーズから自立のフェーズに入ったのだから、再度問題を定義し直し、単純に支援にするフェーズから自立することを支援するフェーズへ移るための制度設計をしていきたいと思います。

今回の訪問は椎名さんを通じてRAG FAIRのおっくんが多くをコーディネートしてくれました。おっくんも地元に深く入り込んでいるんだなぁというところが訪問したいたるところで感じられました。今回おっくんがいなければ、こんなに前向きな人たちとの出会いもなかっただろうし、役所の方にお願いしてコーディネートしてもらったら体裁ばかりの表面的な声しか聴けなかったと思っています。おっくん、いい出会いを本当にありがとう。

最後に皆さんからいただいた現場の声は国政で訴えていきたいと思います。